運河の街、東京
東京は運河の街だ。もともと江戸時代より以前は、今の大丸有エリア(大手町、丸の内、有楽町のエリア)や東京駅周辺は海だった。日比谷入江と呼ばれる入江が広がっていたそうだ。
江戸時代以降、埋立が進み、結果、運河が縦横無尽に走るようになった。戦後、埋立が加速してその運河もだいぶ少なくなったようだ。
八丁堀も門前仲町も清澄白河も、江戸時代より前はない。海の中だ。正確には、海というより、きっと広大な干潟のような場所が広がっていたんじゃないだろうか。今では見る影もない。
今回はそんな八丁堀、佃、門前仲町、清澄白河周辺をぶらぶら歩いた。新型コロナの影響で都内のホテルが安い。この恩恵にあやかり、休みの日やのんびりしたいときに都内のホテルで過ごしてることは「休日は都内のホテルでのんびりステイ。価値ある出費、いや、投資。味をしめた君がいる。」にも書いた。
2022年1月22日(金)、1泊2日で八丁堀のホテルに泊まった。ぶらぶら旅は、嬉しいことにNさんも少しだけ合流、参加してくれた。
八丁堀から佃へ
八丁堀。江戸時代、この地に開削された堀の長さが約8町(約873m)あったことから「八町堀」と呼ばれ、後に「町」が略字の「丁」となったという。
Wikipediaによれば、「江戸時代初期には、多くの寺が建立され、寺町となっていた。しかし、1635年、八丁堀にあった多くの寺は、浅草への移転を命じられた。その後、寺のあった場所に、町奉行配下の与力、同心の組屋敷が設置されるようになったという。時代劇で同心が自分達を“八丁堀”と称したのはこれに因む。」とある。
そしてまた、「江戸時代、八丁堀にあった銭湯は非常に混雑することで知られ、混雑を避けて無人の女湯に入る同心などの者達もいた。「八丁堀の七不思議」の一つ、“女湯の刀掛け”は史実である。」とある。こうなると「八丁堀の七不思議」が気になってくるが、きりがないのでやめておこう。
今ではウォーターフロントと呼ばれ、タワーマンションが建ち並ぶこの界隈、なんともおもしろい興味深い歴史がある。アイキャッチにも使った画像がまさに今の八丁堀界隈からの景色だけれど、今では往時を偲ぶすべはほとんどないに等しい。どことなく哀しい気持ちになる。
八丁堀から佃は近い。亀島川にかかる南高橋を渡り、その後、隅田川にかかる中央大橋を渡れば佃だ。
佃といえば佃煮を思い浮かべる人が多いかもしれないが、全国各地に似たような煮物が存在し、どうやら佃が元祖なのかどうかは不明らしい。
佃の歴史もまた興味深い。
Wikipediaによれば、「佃島は慶長7年(1602年)、摂津国佃村と大和田村からの34人の入植を契機とし、正保元年(1644年)に隅田川河口・鉄砲洲の干潟100間四方の埋め立てによって出来た漁村である。~略~。本能寺の変が起きた時、徳川家康はわずかな手勢と共に堺にいた。家康は本拠地の岡崎城へと戻ろうとしたが、神崎川まで来たところで川を渡る舟が無く進めなくなった。そこに現れたのが近くの佃村の庄屋・森孫右衛門と彼が率いる漁民たちで、彼らが家康らに漁船を提供した。その結果、家康らは生きて岡崎に戻ることができた。後に家康が江戸に入った時、命を救ってくれた摂津・佃村の漁民たちを江戸に呼び寄せたのが入植の由来とされる。佃村の漁民たちは自由に漁業を営む権利や、年貢免除の特権を獲得し、江戸中期においても隔年で本国と江戸を行き来し御用を務めていたとされる。」とある。
いやはや、おもしろいではないか。
この日は、建ち並ぶリバーシティのタワーマンション群の横を抜け、相生橋へ。門前仲町へと歩を進めた。
佃から門前仲町へ
相生橋は、佃島から越中島にかかる橋で、佃島にぶつかってふた手にわかれた隅田川の片一方、晴海運河にかかっている。この橋の途中には中之島公園があり、渡り終えると越中島公園がある。散歩にはちょうど良い。
越中島公園の道路を挟んだ向かい側には明治丸記念館があり、立派な明治丸を横手に見ることができる。見学もできるようだけどこの日はしなかった。
ちなみに、明治丸は、1873年に灯台巡視船として日本政府がイギリスに発注し、天皇の乗る御召し船や練習船としても使用されたらしい。今は国の重要文化財だ。
現在の海の日は、1876年にこの明治丸が明治天皇の北海道・東北地方への巡幸に供され、7月20日に横浜に無事帰港した事を記念して制定された「海の記念日」がもとになっているという。
運河散歩にふさわしく、古岩場川親水公園から大横川にかかる石島橋をわたって門前仲町へ。ちょうどお昼時だったのでランチした。
なんとなく入ったお店はイタリアン、「Cerdi」。比較的リーズナブルで、まぁまぁ美味しかった。
門前仲町から清澄白河へ
お昼を食べてから深川不動堂を参拝。この深川不動堂の歴史も古い。
Wikipediaによれば、「江戸時代のはじめ、歌舞伎役者の市川團十郎が不動明王が登場する芝居を打ったことなどにより、成田山の不動明王を拝観したいという気運が江戸っ子たちのあいだで高まった。これを受けて、元禄16年(1703年)、1回目の成田不動の「出開帳」(現代風にいえば「秘仏特別公開」)が富岡八幡宮の別当・永代寺で開かれた。これが深川不動堂の始まりである。」とある。
ここでNさんとは別れて、1人ぶらぶら旅を続行。清澄白河へと向かった。途中、いくつか気になるお店も見つけた。特に「割烹天竜」は今度行ってたい筆頭だ。
清澄庭園にもと思ったけれど、コロナの影響で閉園中だった。残念。
Wikipediaによれば、「この地には元禄期の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷があったと伝えられる。享保年間には下総関宿藩主・久世氏の下屋敷となり、ある程度の庭園が築かれたと推定されている。1878年(明治11年)、荒廃していた邸地を三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取り、三菱社員の慰安と賓客接待を目的とした庭園の造成に着手。1880年(明治13年)に竣工し、深川親睦園と命名された。三菱社長の座を継いだ岩崎弥之助は庭園の泉水に隅田川の水を引き込むなど大きく手を加え、1891年(明治24年)に回遊式築山林泉庭園としての完成を見た。」らしい。
さすが三菱財閥と言ったところか。清澄庭園の横にある清澄公園でしばし休憩した。往時の姿を拝んでみたいなと思いつつも、公園だけではそうもいかなかった。コロナが落ちついたらまた行ってみたい。
というわけで、清澄白川から宿をとった八丁堀までももちろん歩いた。隅田川沿いを川面を眺めながら南下したり、ときどき街中にも入ったりして、結局10km。1月19日(水)の「東京ぶらぶら旅。九段下、お茶の水、大手町。10kmウォーク。」と同じくらい歩いてしまった。
いや、良いではないか。なかなか楽しいんだよ、東京人の東京旅。
GPSの記録
YAMAPで記録していたGPSの切り抜き画像です。
【おわり】